カンボジア概要と子どもデータ
カンボジア王国概要
(出典:外務省)
国旗 | |
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首都 | プノンペン |
面積 | 18.1万km2 |
人口 | 約1,470万人(2013年 政府統計) |
民族 | カンボジア人(クメール人)が90% |
言語 | カンボジア語(クメール語) |
宗教 | 仏教(一部少数民族はイスラム教) |
カンボジアの歴史と社会情勢 ~子供に関わる問題は~
世界史にも大きく残る内戦の悲劇が続いたカンボジア。
1863年からフランスの保護国に、第二次世界大戦では日本が占領、しかし日本の敗戦を機に、フランスの統治下に戻りました。
東南アジア各国が次々と独立を果たす中、シハヌーク王は粘り強くフランスと交渉し、1953年にフランスからの完全独立を果たし、カンボジア王国が建国されたのです。
しかし当時の世界はアメリカの資本主義と、ソ連の共産主義が対立する冷戦時代。
1960年代に入ると、隣国ベトナムでは米ソの代理戦争であるベトナム戦争が始まります。そこでシハヌーク政権は、ソ連や北ベトナムの社会主義側との連携を強めます。
一方で南ベトナムを支援するアメリカは、当時のカンボジアで将軍だった右派のロン・ノルを後押しします。ロン・ノルはアメリカを後ろ盾に政権を奪い、国名も「クメール共和国」に改名しました。
そしてカンボジアの共産主義者を徹底して攻撃したのです。
これにより国民のロン・ノルへの不満は募っていきます。
その一方で、勢力を伸長してきたのが、ポル・ポト率いる反政府勢力、クメール・ルージュでした。
ベトナム戦争が北ベトナムの勝利で終結、それに伴いアメリカ軍が撤退、政権の弱体化を機に、クメール・ルージュはついに1975年にプノンペンを占領し、ポル・ポトを最高指導者とする「民主カンプチア」が樹立されたのです。
内戦が終結したことは国民にとって平和の再開だったはず。
しかしこれが世界中を震撼させる悪夢の始まりとなったのです。
ポル・ポトはここで「原始共産主義」をかかげました。「全ての国民の格差をなくすことこそが、理想とする社会」、格差、階級のない社会に知識人は不要と考えました。
そこで、医者、教師、僧侶、教育を受けた人々、著名人、立場のある人々を次々と殺害したのです。
このポル・ポト政権下では虐殺に加えて、疫病や飢餓により200万~300万人もの死者が出たのです。それはカンボジア全国民の三分の一とも言われています。
国民の三人に一人がこんな短期間で死んでいったという例のない悲劇。これを背負っているのがカンボジアなのです。
ポル・ポト政権は次第に内部での分裂が進み、1991年のパリ和平協定により長い内戦は終結されました。
1993年には国民総選挙が行われ、この選挙では、ラナリットとフン・センの二重首相体制となりましたが、両党は次第に対立。
1998年の第二回総選挙では、カンボジア人民党が第一政党となり、フン・セン首相の単独体制となり、今に至っているのです。
現在のカンボジアは、平均年齢は24才、経済成長率は7%という、若さと活気に満ち溢れる成長国という一面もあります。
首都プノンペンは高層ビルやコンドミニアムが次々と建設され、そこだけ見ていると大都会にも見受けられるほどまでに発展しているのです。
しかし過去の悲劇は現代にも大きく影響を及ぼしているのです。
もし生きていたなら70代となるような、各分野をリードする経験と知識のある人々は内戦によって殺害されているのです。
学校やお寺、文化的な施設も崩壊されました。校舎や教員が不足していることから、いまだにカンボジアの小中学校は半日授業です。
内戦により経済は完全に崩壊、国家の成長は止まり、国連基準では「後発開発途上国」にまで衰退してしまったのです。
“それ以下の所得では生存が脅かされる個人や家族”を「貧困層」と定義すると、食料、医療、住居がその基準に達しない人々は国民全体の約35%です。
この水準以上が充分な生活を営んでいるのかと言えば、そうではなく、実に国民の半数程度が貧困層、もしくはそれに近い水準の所得で生活しているのです。
所得のない家庭の子供は、自分自身が生きるために働かざるをえません。
経済的に親を頼れない子供、病気や地雷によって親を失った子供、捨てられた子供も同様です。
ゴミを拾っての生活、物乞いで生きている子供には、今でもいたるところで出会うこととなります。
ストリートチルドレンは世界で1億人以上とも言われており、この中の多くの割合がカンボジアの子供でもあります。
路上での生活は、非常に不衛生で、HIVを始め、大病で命を失う子供もいます。
親もいない、学校も行っていないことから犯罪に巻き込まれるケースもあとを絶たちません。
薬物中毒、売春、窃盗、暴力などの被害者、もしくは犯罪者となるケースも防ぎきれていません。
私たちの孤児院にもこうした環境から保護した子供も含まれています。
この子たちの明るい未来のためにできること、それは“今の生活を支え” “将来の自立に向けての教育”これがとても大切なのです。
写真で見るカンボジア
国民を100万人以上も虐殺したクメールルージュ政党の書記長ポル・ポト。
3年弱の間に2万人が収容されたとされるトゥールスレン収容所。
生還できたのはわずか8人。
トゥールスレン収容所は現在、博物館となり、痛ましい拷問機具や被害者の写真が保存されています。
ゴミの山、本当の小高い山脈のような大きさです。
ゴミを拾って生活するストリートチルドレン。
衛生環境は、非常に悪い状況です。
スラムで暮らす子ども達。
ドブ川にはゴミが溢れ、その上に建てた小屋で生活しています。
スラム街には、こうした家が密集しています。
この村の大人の殆どは、職がありません。
子ども達は、10才前後で売られてしまう場合もあるようです。
カンボジアの子供データ
(出典:Unisef)
基本統計
総人口 | 14138 | (1000人) | 2010 |
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5歳未満人口 | 1492 | (1000人) | 2010 |
18歳未満人口 | 5560 | (1000人) | 2010 |
年間出生数 | 318 | (1000人) | 2010 |
人口の年間増加率 | 2 | (%) | 1990-2010 |
出生時の平均寿命 | 63 | (年) | 2010 |
ひとりあたりのGNI | 760 | (米ドル) | 2010 |
子どもの死亡率
乳児(1歳未満児)死亡率 | 43 | (出生1000人当たり) | 2010 |
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5歳未満児死亡率 | 51 | (出生1000人当たり) | 2010 |
5歳未満児の年間死亡数 | 16 | (1000人) | 2010 |
妊娠と出産
合計特殊出生率 | 2.6 | (人) | 2006 |
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避妊法の普及率 | 51 | (%) | 2006-2010* |
妊産婦死亡率 | 290 | (出生10万人当たり) | 2008 |
専門技術者が付き添う出産の比率 | 71 | (%) | 2006-2010* |
予防接種
結核(BCG)の予防接種を受けた1歳児の比率 | 94 | (%) | 2010 |
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3種混合予防接種を受けた1歳児の比率 | 93 | (%) | 2010 |
ポリオの予防接種を受けた1歳児の比率 | 92 | (%) | 2010 |
はしかの予防接種を受けた1歳児の比率 | 93 | (%) | 2010 |
破傷風から保護される新生児 | 91 | (%) | 2010 |
政府資金による定期EPI用ワクチンの購入率 | 40 | (%) | 2010 |
水と衛生
改善された水源を利用する人の比率
全国 | 61 | (%) | 2008 |
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都市 | 81 | (%) | 2008 |
農村 | 56 | (%) | 2008 |
適切な衛生施設を利用する人の比率
全国 | 29 | (%) | 2008 |
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都市 | 67 | (%) | 2008 |
農村 | 18 | (%) | 2008 |
栄養
低出生体重児出生率 | 9 | (%) | 2006-2010* |
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5歳未満の中・重度の低体重児の比率 | 28 | (%) | 2006-2010* |
ビタミンAの補給率(6~59ケ月児) | - | (%) | 2010 |
ヨード添加塩を使う世帯 | 83 | (%) | 2006-2010* |
教育(識字率・就学率)
成人の総識字率 | 78 | (%) | 2005-2010* |
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若者(15-24歳)の識字率 | 男性 89、女性 86 | 男性 98、女性 98 | 2005-2010* |
女性成人の識字率の対男性比 | 83 | (%) | 2005-2010* |
初等教育純就学率 | 男子 90、女子 87 | (%) | 2007-2010* |
小学校に入学した子どもが最終学年まで残る率 | 54 | (%) | 2006-2009* |
中等教育純就学率 | 男子 36、女子 32 | (%) | 2007-2010* |
カンボジア:子供に関する問題を考える
(出典:Unisef)
人身売買の犠牲になったある二人の子どもたち<カンボジア>
その1:バニー
カンボジア女性緊急センター(バンテアイ・ミアンチェイ州 シソフォン)
2003年5月、バニー(17歳)は、カンボジアのバンテアイ・ミアンチェイ州の村で母親と一緒に暮らしていました。
ある日、ひとりの女性が、タイで家政婦の仕事をしないかとバニーに話を持ちかけてきました。1ヵ月に3000バーツ(75米ドル)も稼げるというのです。バニーと母親にそれを断る理由はありませんでした。
すぐに契約書にサインをしたバニーは、3日後、26人の子どもたちと一緒にタイに向けて出発しました。
しかし、バニーはバンコクにある売春宿に売られたのです。毎日客の相手をさせられ、レイプされ、虐待され、2ヵ月もの間、悲惨な状況で過ごさなければなりませんでした。
とうとうバニーは、母親に手紙を出しました。母親は、その知らせにひどく驚き、バンコクまでバニーを迎えにきました。しかし、彼女を引き渡す代わりに1000米ドルもの大金を支払うように言われたのです。
カンボジアに戻る途中で、二人はこのことを地元の警察に通報しました。警察は、バニーにカンボジア女性緊急センター(CWCC)を紹介してくれました。
バニーは2003年7月にそのセンターに入り、センターのスタッフやそこにいる女の子たちの助けで、つらい過去から立ち直りつつあります。彼女は規則的にカウンセリングを受け、裁縫やクメール語、英語の勉強をしながら暮らしています。
センターの支援を受けて、警察はバニーを売った犯人の女性の居場所をつきとめ、2003年8月28日に逮捕しました。この犯人は現在、刑務所にいます。
バニーは2004年のはじめまでこのセンターで過ごしたあと家に戻り、覚えた裁縫技術を使って仕立て屋のビジネスを始めようと計画を立てています。
その2: ディナ
カンボジア女性緊急センター(バンテアイ・ミアンチェイ州 シソフォン)
17歳のディナは、カンボジアのシェムリアップ州の小さな村に両親と7人のきょうだいと一緒に暮らしていました。
家族は貧しく、収入源はわらを売ることだけでした。ディナは家族が食べていくために、森から野菜を採ってこなくてはなりませんでした。
ある日、尼僧がやって来て、ディナをタイにあるパゴダ(仏塔)へ連れて行きたいと家族に申し出ました。もし、それを受け入れてくれれば、2500バーツ(62.50米ドル)を支払うと言い、家族はすぐに承諾しました。
タイに出て初めの3ヵ月の間は、ディナはパゴダで仕事をし、賃金をもらっていました。
そんなある日、尼僧は、バンコクへ一緒についてきてくれないかと言いました。バンコクでは、尼僧の娘がレストランを経営しているといいます。
ディナと両親、尼僧は話し合い、最終的に契約書にサインをしました。
バンコクのレストランに着くと、ディナはレストランのオーナーが尼僧に金を支払っているのを目撃しました。尼僧が急ぐように帰っていくとすぐに、3人の男がディナをつかまえ、彼女に麻薬を注射をしました。
ディナが意識を取り戻したときは、彼女はすでに裸にされていました。レイプされたのです。
それから6ヶ月もの間、ディナは麻薬を注射され続けました。
レストランとは実は売春宿で、ディナが客の相手を拒むと、意識を失わせようといつも以上に麻薬を注射されました。
ディナが客にもっと魅力的に映るように、ときどき化粧品店へ連れていかれました。
ある日、ママサン(売春宿の経営者)がディナに麻薬の注射を忘れ、ディナは意識を取り戻し、自分が置かれた立場を理解しました。
そこへ偶然にも、警察官が彼女を相手にしようと来たのです。警察官は、ディナがクメール人であり人身売買の被害者であることを知ると、彼女を逃がす助けをしました。
彼はディナの髪を短く切り、あたかも男友だちのように彼女に腕をまわして売春宿を脱出しました。その後、警察官は、ディナをタイ密入国の罪で逮捕して拘置所へ送り、ディナはそこで3ヵ月間を過ごしました。
ディナはカンボジアへ戻され、2002年のクリスマスの日に、カンボジア女性緊急センターへ送られました。彼女は、家に帰る準備ができるまでセンターで過ごすことになっています。
つらい過去を克服するには、まだ時間がかかりますが、彼女は毎日少しずつ回復し、つらい記憶はだんだんと薄れてきています。
(注) カンボジア女性緊急センター(Cambodian Women’s Crisis Center:CWCC)は、女性に対するあらゆる暴力をなくすために活動し、ジェンダーに基づく暴力の被害者や彼女たちのこどもを支援しています。センターは特に、家庭内暴力、レイプ、人身売買の被害者のために活動しています。
2003年、ユニセフの支援により、シソフォンに2つの建物を建設しました。そのための用地もユニセフの支援で確保されました。これは、安全なシェルターの提供を通じて、少女たちを人身売買の被害から守り、保護するというCWCCのプロジェクトの一環として行われました。
経済活動が伴えば、社会復帰もよりうまく進みます。
一つの建物は寮として使われており、もう一つが職業訓練の授業に使われています。建物は私有の安全な場所に建ち、そこに住む女性たちの安全を十分に確保しています。
【背 景】
カンボジア政府は、子どもの人身売買と搾取を阻止し、危険にさらされている子どもを保護することを確約していますが、政府の能力の限界を超えています。
政府には、より多く、保護と防止策、早い段階での介入を実施するよう、大きな圧力がかかっています。
しかしそれが実施できないのは、単に政府に、そうした対策を提供するための知識や専門技術、経験が足りないからです。
そこでユニセフ・カンボジア事務所は、カンボジア政府が、子どもの権利条約の締約国としての責務を果たせるよう支援してきました。
ユニセフは、社会福祉制度の拡大と子どもの法的保護を促進するように働きかけています。これは、社会福祉に関する問題について政府職員に研修を行ったり、人身売買や搾取の被害者の救出、回復、社会復帰を支援するNGOに対する支援などを含みます。
ユニセフはまた、人身売買と搾取の防止および早期介入戦略に焦点をあてており、子どもの保護ネットワーク、青年・子ども達自身の活動、特別な保護を必要とする家庭への支援、意識向上などの活動を進めています。
この支援の重要性は、強調しすぎといわれることはあり得ません。なぜなら、カンボジアでは2000人もの女性と子どもが性労働者として売買されていると推定されており、さらに多くの人がカンボジアからタイへ売買されていると言われています。
子どもたちは、だまされ、欺かれ、そして目的国へ送られる前に売られていきます。バンコクの路上で、買春の犠牲となり、物乞いをさせられ、花や土産物売りとして働かされます。物乞いのための人身売買はお金になる取引で、国境を越えた子どもの人身売買の多くがこのケースです。
ケースによっては、人身売買者は子どもの家族と契約を交わしており、子どもを人身売買者に「貸し出す」代わりに定期的に収入を得ます(1月平均35米ドル)。人身売買の対象になった子どもは、残りの家族を養うことになります。
人身売買を防止するコミュニティレベルでの努力が、これらの問題を減らし、家に帰った子どもたちが再び路上に戻らないようにするために重要です。
また、子どもたちが、家族を助けられないという罪悪感を感じて、再び人身売買の対象になったりしないようにするためにも必要です。
2004年2月17日
カンボジア・プノンペン(ユニセフ)